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by v-1046-r
| 2012-01-15 19:25
| リアル
(ry
190年、都を長安に移してからも董卓の横暴は続き、反董卓軍が瓦解したことをいいことに、相変わらずしたい放題だったのですね しかし、その董卓を倒したのは、敵ではなく、身内、それも親子の契りまで交わした腹心の部下・呂布! この呂布、三国志前半の最大のキーパーソン! ネ 弓馬の名人で、腕力もめちゃくちゃ強い武人だったのですy そんなわけで、有力者には重宝されるのですが、問題はその生き方。 とにかく、裏切りにつぐ裏切りで、主君を次々と変えた。世渡り上手といえばそうだし、行き当たりばったりな人生といえばそうともいえますのぅ... 最初に使えたのが丁原という地元の有力者。この人物に気に入られ、養子になる。 その丁原が何進の招聘を受けて都に上がったので、一緒に都へ行くのですが、すでに董卓が実権を握ってたのですね 丁原は董卓のヤり方に反対してたので、それを察した董卓は、敵になる前にヤ(殺)ってしまおうとするのですが、それには豪傑で知られる呂布が非常に邪魔だったのですね そこで、呂布のもとに使者を出して、寝返るように進めた結果、ホイホイと誘いに乗り、義理の父である丁原を斬り、首を持って董卓に仕えることにしたのですのぅ この時に呂布は董卓の義理の親子になるのですが、またもや裏切り、二度目の父殺しをすることに。。。 呂布をそそのかしたのは、司徒という、今でいう総理大臣のような役職に就いていた王允。彼は、董卓のあまりの悪逆暴政に、漢王朝の未来がなくなると恐れてたのですね。 かといって、自身には戦いなどできるわけもなく、当卓を倒そうとしても、いつもそばにいる呂布によって返り討ちにあうのは目に見るのは必然 そこで、連環の計という策謀によって、二人の仲を裂き、呂布が董卓を殺すように仕向けたのですね 王允が使ったのは 女 。史実としては諸説あって、はっきりしたことは分らないのですが、一人の女性を二人が奪い合い、それが原因で、呂布が義理の父である董卓を裏切り、殺してしまったのは確からしい 192年、こうして王允のクーデターは成功したのですy しかし、董卓が死ぬと、その部下たちが反撃にでて、形勢不利と見た呂布は、王允を見捨て、今度は袁紹のもとに向かったのですじゃ そして王允は、董卓の部下によって殺されてしまい、権力掌握は三日天下で終わりましたとさ。。。 #
by v-1046-r
| 2011-12-26 23:55
| 三国志
テンションが高いうちに投稿しておこう!
ということで、雑学いくよ! さて、霧ともやはどういうふうに区別するものかご存知で? 次の3択から選ぶんだb 1.「朝もや」「夜霧」というぐらいだから、朝に発生するものが「もや」で、夜に出るものが「霧」 2.成分や生成の過程が違う 3.濃さが違う 正解は 3 の濃さですのぅ。。。 霧は、水平視程一キロ未満。 分りやすく言えば、一キロ以上離れたものが見えにくいほどの濃さ。 霧の中の湿度はほぼ100%近くになるので、目の前が水滴でいっぱい。といった状態 濃霧になると陸上では200m未満、海上では500m未満になり、場所によっては濃霧注意報や警報が発令されますの で、もう一方のもやは、水平視程一キロ以上。霧の場合より遠くまで見える状態。 成分に関してはどちやも同じ。水滴が大気中に無数に浮遊する現象が、霧やもやなのですね 発生条件は水蒸気の量が多く、空気が冷えていること。 湖に発生しやすいのはこのため。 もう一つ、霞という紛らわしい言葉がありますが、これは空気中の水滴・煙・埃などが原因で視界が曇るとこで、気象用語ではないので気をつけるんだ( ゚д゚)! 余談 #
by v-1046-r
| 2011-12-24 00:57
| 雑学etc
雑学イッテミヨウヵ
雷が鳴ったときは、金属物を身につけたり持ってたりしていると危ないとかなんとか 良く言われますよね? しかし、それはある意味本当であり、ある意味嘘なんですね 金属を身につけて落雷にあったとしたなら、それは金属ではなく、人体そのものに落ちているのが真実 雷は決して金属に落ちるものではないんですy そもそも雷というのは、極めて強力な放電。しかし、絶縁体である空気をものともせず、数キロ以上の大気を突き破る雷にとっては、人体は手軽な伝導体。まさにカモ! 水分が多くて電気の流れやすい人体は、近くにもっと背の高い伝導体さえなければ、ホイホイと誘引してしまうんですね その際、金属を身につけているとかは一切関係なし! ネ。 次に、金属が誘引するとしたら、傘などを人体より高く立てて持つか、掲げているときですネ よく、ゴルフをしていたら落雷に遭ったと耳にしますが、それはこれらの状況が重なった場合ですの なんか、中途半端に終わったような気がしないでもないが・・・まァ気にしたらダメヵ( 最後に、ブログとは言えないこのブログは、もう何時更新するかわかりません!(キッパリ ↑理由はここらへん ので、また昔みたいに数ヶ月放置とか、もしかしたらあるかもしれませぬ。。。 それか、もう爆破しようか・・・ #
by v-1046-r
| 2011-09-29 18:45
| 雑学etc
さて、(ry
空中分解した連合軍の武将たちは各々領地へ帰還して、力を蓄えることにしたのですね ここから群雄割拠の時代になり、そのなかで頭角をあらわすのが曹操ですネ! 曹操はさきの連合軍の袁紹の陣に参加しており、2人は同郷で幼馴染みだったのですが、袁紹は名家生まれで、曹操は祖父が宦官(その養子が父)だったので、意外と身分は低かったんですね。袁紹は大の宦官嫌いで、何進が宦官殲滅を仕掛けた時には そんな2人が決裂するのは、董卓が洛陽から長安に遷都したときに、追撃するべきと進言するも、それに耳を貸さず、総攻撃を命じなかったからが1つ。 袁紹はもともと戦いを好まぬ武人として知らされていて、力と力の衝突よりも、根回しや謀略を好んだのですね そして曹操は手勢だけを率いて追撃するのですが、敗走。諦めずに追撃するべきと進言するも、またもや拒否。こうして曹操は袁紹のもとを離れるのですが、名士と呼ばれる知識人には、漢王朝のために先頭に立って戦ったとして高く評価されることになったのですy そんなことがあり、名士の一人、荀彧が曹操の陣営に参加。荀彧も袁紹の陣営にいたのですが、人物として見切りをつけ、曹操の参謀になったというもの 荀彧という後ろ盾を得たことにより、曹操の行動が正当化され、他の名士たちも次々と陣営に参加。 こうして曹操は台頭してくのであった。。。 #
by v-1046-r
| 2011-09-20 00:30
| 三国志
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