여러가지로 바빠서 시간이 모자라다.
とまァ、韓国語で書いてみる。 意味はggrといいかもよ! 別に韓国語を勉強してるとかじゃないんだけどね。 転職してぇ~・・・(-"-;) #
by v-1046-r
| 2012-11-06 01:33
| リアル
さて、史実編いってみようヵ!
赤壁の戦いとは三国志のなかでも最大の見せ場であるッ! が 意外と地味だったッ! ネ。 曹操軍20万 VS 同盟軍3万 208年、曹操が南下を開始。 運悪く劉表が病死し、後継者の劉琮は降伏を決定。 降伏か交戦か、陣営内で意見が対立。そんな時、降伏に納得しない荊州の人々が加わりたいとやってきた。その数約10万人。戦力はあてにならず、重荷しかならない。 しかし、劉備は反対意見を退け、10万人の同行を許可。曹操軍に追われながらひたすら南に逃げるが、大勢の民間人がいるため進軍速度は上がらず、長坂坡で追いつかれてしまうが、趙雲と張飛の活躍で難を逃れ、夏口の劉琦の下へ落ち延びる。 その頃、荊州の視察に来ていた魯粛は、劉琮が曹操に降伏したと知ると、すぐさま劉備のもとへやってきた。 両者が会談した場所は蜀書と呉書では異なり前者では夏口、後者では当陽となっている。魯粛は劉備に孫権との同盟を持ちかけ劉備は諸葛亮を使者として使わせた。孫権は諸葛亮と会話をし曹操との交戦に決断。しかし、この後再び張昭らの投降論により孫権の意思は揺らぎはじめる。そこで魯粛は孫権に対して降伏したとてあなたには居場所がないと脅しをかけ周瑜の進言を聞くよう説得した。そうして、孫権はついに曹操との交戦を決意した。 周瑜は時間をかけてこのまま睨み続けていれば曹操軍は病人を多く出し撤退すると考えていたが、黄蓋の策に興味をそそられ、苦肉の計を実行。 折からの強風にあおられて曹操の船団は燃え上がり、炎は岸辺にある軍営にまで達した。船団は打撃を受け、おびただしい数の人や馬が焼死したり溺死したりした。 曹操は急いで残った船に火をつけて撤退し、同盟軍は勝利しましたとさ。 ちなみに、14万の損害を受けた曹操軍ですが、主な原因が疫病が流行り、官吏士卒の多数が亡くなったので、撤退した とあります。 最後に、演義では諸葛亮孔明の活躍により、赤壁で孫・劉軍は大勝することになっている。しかし、事実は全く違う。確かに孫権は劉備と同盟した形にはなったが、実際の赤壁の戦いに劉備軍は一切参加していない。つまり、劉備軍は孫権軍の後方で大人しく留守番をしていただけなのである。 #
by v-1046-r
| 2012-09-23 20:04
| 三国志
赤壁の戦いとは三国志のなかでも最大の見せ場であるッ! ということで、最初で最後の演義と史実2つ書いてみようk でも、一部省略したり簡単に書くよ( ゚д゚)? 曹操軍100万 VS 同盟軍10万 まずは演義から 208年、曹操が南下を開始。 運悪く劉表が病死し、後継者の劉琮は降伏を決定。 降伏か交戦か、陣営内で意見が対立。そんな時、降伏に納得しない荊州の人々が加わりたいとやってきた。その数約10万人。戦力はあてにならず、重荷しかならない。 しかし、劉備は反対意見を退け、10万人の同行を許可。曹操軍に追われながらひたすら南に逃げるが、大勢の民間人がいるため進軍速度は上がらず、長坂坡で追いつかれてしまうが、趙雲と張飛の活躍で難を逃れ、夏口の劉琦の下へ落ち延びる。 劉備が生き残るには1つしかなく、それは孫権との同盟。 しかし、劉備軍は疲弊しており、とても戦える状態ではなく、本来なら、孫権と対等の同盟関係を結べる立場ではありませんでした。そこを何とかして、優位な形に持っていかなければならないという、非常に困難な任務に孔明を使者として出すことに。 孔明は孫権に説得を始め、また孫権は周瑜の意見も聞いた上で、同盟を結び、曹操と戦うことを決意。 孔明と周瑜は火計しかないと判断し、計略を使い、曹操軍の蔡瑁を謀殺したり、偽りの降伏をしてきた蔡中・蔡和には偽情報を曹操軍に流させるなど大いに利用した。 さらに周瑜は、孔明を危険視しており難題を与えて処刑させようと目論むのですが、ことごとく失敗。 苦肉の計と連環の計により、火計の準備は整った。しかし、この時期は東南の風が吹かず、この方向に風が吹かないと、火計を実行しても味方に被害が出てしまう。だが、孔明は東南の風を吹かせると言い、祭壇を作り祈祷すると、どこからか東南の風が吹く。 東南の風が吹くと、予定通り火計を実行し、曹操軍は壊滅的打撃を受け、撤退。同盟軍は完勝したのであった。 史実編は次回に・・・ #
by v-1046-r
| 2012-09-06 00:00
| 三国志
PCがやっと直り、明日取りに行けるぜ
(ノдT) 苦節3週間・・・どれほどこの時を待ちわびたか(-"-;) さて本題 劉備が歴史に登場するきっかけとなったのは、黄巾の乱で、公孫瓉という将軍に迎え入れられたのが始まり。 そして話はちょっと進み、183年、陶謙に父を殺された曹操は、復讐の為挙兵し、攻められていた陶謙の加勢に行ったことで、陶謙の死後、徐州の牧となる。 その後、呂布と同盟を結ぶも裏切られ、曹操と共に下邳の戦いで呂布を撃破。 その次に、曹操を倒す為のクーデターに参加するが、発覚され、袁紹のもとへ逃亡。 200年、同盟を組んでいた袁紹が曹操に敗れると、荊州の劉表のもとに逃れ、客将として迎えられます。それが201年。 劉備は曹操軍の侵攻に備える為、北の守りを任されますが、曹操が河北平定に忙しく攻めて来なかったので、それはもう、暇だったそうな・・・。 しかし! そんな平和の中、徐庶と出会い、軍師に招き入れることになるのですが、残念なことに、フィクションなんです(ぁ 仕切り直して・・・ そんな平和の中、207年に三顧の礼で諸葛孔明と出会う。 当時の荊州は、劉表の中立政策のおかげで平和だったので、各地から名士と呼ばれる方達が移り住んでたのですね。 孔明もその一人で、その知識は卓越しており、名士達の間では知る人ぞ知る存在。 曹操には荀彧、孫権には周瑜。しかし、劉備にはそれに匹敵する参謀がいなかった為、孔明のことを知ると迎え入れたいと思っており、三度目の訪問でようやく、会うことができたのである。 孔明は、二度も留守をしていたことを詫びるとともに、それにもかかわらず、三度も来てくれたことに礼を言い、そして、そこまで自分のことを買ってくれるならと、陣営に加わることを承諾。 この時劉備に、天下三分の計を説いたのは有名なお話。 #
by v-1046-r
| 2012-08-31 17:39
| 三国志
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